なにもいらない
なにもいらない
「これ」
佐和子は歩きながら、孝雄にキーを投げた。
「へえ」
ワインレッドのメルセデスベンツ。モデルチェンジしたばかりの新型だ。孝雄がキーレスコントロールでドアロックを外すと、佐和子はすぐに右側のドアを開け、助手席に乗り込んだ。
「俺けっこう飲んでる。運転できない」
運転席に座った孝雄の言葉を、佐和子は無視した。
「どう?これ」
「うん、車は悪くない」
「似合わない?」
「趣味が悪い」
ふふ、と佐和子は笑った。
「ねえ、あなたは車持ってるの?」
「うん。こんな高級車じゃないけど」
「なに?」
「カローラⅡ。二十年落ちの」
「ねえ、今度その車でドライブしない?」
「ポンコツだよ。たまにエアコンが効かなくなるんだ。やめたほうがいいよ」
「エアコンなんていらないよ。なんにもいらない」
近くの神社で祭りが行われているようだ。浴衣を着た子供達が走っていく。
「この車ね、別れる時ダンナ様が買ってくれたの」
「別れる時?」
「うん。一千万円目の前に積まれてね、これやるから、頼むから俺と別れてくれって」
「そのお金、わたし受取ったの。それでこれを買った」
「そうか」
「うん。趣味悪いでしょ?」
「うん。さっきそう言ったろ」
「うん」
孝雄はその逆だった。頼むからわたしと別れて下さいと、彼女が一千万円を持ってきた。両親から工面したらしいその金を、孝雄は受取った。一千万円という金額は彼女の優しさだった。膝を揃えて座り、フローリングの床に滑らせる、その金を差し出す仕草は、彼女の決心だった。その時、金を受取らずに別れるのが男の優しさだと思った。しかしそれと同時に、孝雄には喉から手が出るほど欲しい金額だった。大小いくつかの金融会社からのものを合わせると、ほぼ同額の借金が、孝雄にはあったのだ。
孝雄は彼女と離婚した。一人娘の佳代は彼女が育てることになった。受取ったその金は全額借金返済に当てた。それから十年が過ぎた。佳代は今年成人式を迎える。
「わたしにもね、子供いるの。育ててるのは父親だけど」
「会ってないのか」
「うん、ぜんぜん。会わない約束で別れたし」
「そうか」
「もっといっぱい手つないで歩いたり、いろんなところ行ったりすればよかったな」
「いまからでも遅くないだろ」
佐和子は小さく首を振った。
「・・・今日はお祭りなのね」
「なあ、サワ・・・」
「やめて」
手首を掴んだ孝雄の手に、そっと手を添えて佐和子は言った。
「酔払いはきらいなの」
「今から東京タワー行かないか?」
「誰が運転? まさか、わたし?」
「もちろん」
フロントウィンドウ越しに遠くを見つめる佐和子の瞳が、孝雄の目に眩しかった。
「・・・やだ。行かない」
佐和子はそう言って、小さく微笑んだ。
SEP.23.2008
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