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2008年9月

2008年9月23日 (火)

なにもいらない

なにもいらない

「これ」
 佐和子は歩きながら、孝雄にキーを投げた。
「へえ」
 ワインレッドのメルセデスベンツ。モデルチェンジしたばかりの新型だ。孝雄がキーレスコントロールでドアロックを外すと、佐和子はすぐに右側のドアを開け、助手席に乗り込んだ。
「俺けっこう飲んでる。運転できない」
 運転席に座った孝雄の言葉を、佐和子は無視した。
「どう?これ」
「うん、車は悪くない」
「似合わない?」
「趣味が悪い」
 ふふ、と佐和子は笑った。
「ねえ、あなたは車持ってるの?」
「うん。こんな高級車じゃないけど」
「なに?」
「カローラⅡ。二十年落ちの」
「ねえ、今度その車でドライブしない?」
「ポンコツだよ。たまにエアコンが効かなくなるんだ。やめたほうがいいよ」
「エアコンなんていらないよ。なんにもいらない」
 近くの神社で祭りが行われているようだ。浴衣を着た子供達が走っていく。
「この車ね、別れる時ダンナ様が買ってくれたの」
「別れる時?」
「うん。一千万円目の前に積まれてね、これやるから、頼むから俺と別れてくれって」
「そのお金、わたし受取ったの。それでこれを買った」
「そうか」
「うん。趣味悪いでしょ?」
「うん。さっきそう言ったろ」
「うん」
 孝雄はその逆だった。頼むからわたしと別れて下さいと、彼女が一千万円を持ってきた。両親から工面したらしいその金を、孝雄は受取った。一千万円という金額は彼女の優しさだった。膝を揃えて座り、フローリングの床に滑らせる、その金を差し出す仕草は、彼女の決心だった。その時、金を受取らずに別れるのが男の優しさだと思った。しかしそれと同時に、孝雄には喉から手が出るほど欲しい金額だった。大小いくつかの金融会社からのものを合わせると、ほぼ同額の借金が、孝雄にはあったのだ。
 孝雄は彼女と離婚した。一人娘の佳代は彼女が育てることになった。受取ったその金は全額借金返済に当てた。それから十年が過ぎた。佳代は今年成人式を迎える。
「わたしにもね、子供いるの。育ててるのは父親だけど」
「会ってないのか」
「うん、ぜんぜん。会わない約束で別れたし」
「そうか」
「もっといっぱい手つないで歩いたり、いろんなところ行ったりすればよかったな」
「いまからでも遅くないだろ」
 佐和子は小さく首を振った。
「・・・今日はお祭りなのね」
「なあ、サワ・・・」
「やめて」
 手首を掴んだ孝雄の手に、そっと手を添えて佐和子は言った。
「酔払いはきらいなの」
「今から東京タワー行かないか?」
「誰が運転? まさか、わたし?」
「もちろん」
 フロントウィンドウ越しに遠くを見つめる佐和子の瞳が、孝雄の目に眩しかった。
「・・・やだ。行かない」
 佐和子はそう言って、小さく微笑んだ。

SEP.23.2008

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2008年9月20日 (土)

風とか雲とか空とか

風とか雲とか空とか

〝しゅうごうは、あさ7じ30ぷんです。みなさん、おくれずに、ほいくえんにきてね〟
 孝幸はキッチンの壁に掛けてあるコルクボードのパンフレットをもう一度確認すると、小さく俵型にした最後のおにぎりを弁当箱に詰めた。
 タンスから大きめのハンカチを取り出し弁当箱をしっかりと蝶結びで包む。食器棚の上に置かれた時計の中では小さな妖精がくるくると回っている。針は六時十五分を指していた。
「よし」
 孝幸は、電車で一時間程の場所にある小さな設計事務所で建築設計士として働いている。始業時刻は九時だが、前日の資料を確認し設計図に目を通すため、八時には事務所に入るのが習慣になっていた。毎朝五時三十分には起きて翼の持ち物の確認や弁当の準備をして、六時五十五分には眠気の取れない翼を連れて家を出る。そのため今の時刻は孝幸にとって特別なものではなかったが、普段と違うのは、既に翼が制服に着替え、鼻歌を歌いながら部屋中をうろうろしていることだった。
「おやつをわすれないでね、か」
 パンフレットに書かれている文章を、孝幸は呟いた。
「パパ!もういってもいい?」
 翼が玄関から叫んだ。
「まだ早いよ。忘れ物ないかもう一回カバンの中見てみな。それに、まだ朝御飯食べてないじゃないか!」
 孝幸は袖口のボタンを留めながら、玄関に向かってそう叫んだ。翼はしぶしぶダイニングへ戻ってきた。
「さえちゃんと、あきらくんは、いつも はやいから、もう いるかも しれないよ」
「だってまだ六時十五分じゃないか。まだ誰もいないよ。さあ、早く朝御飯食べちゃおう」
「はあい」
 今年五歳になる翼は、父親から見てもしっかりしてきた。内弁慶なところはあるが、優しい性格に育っているらしい。
 本来なら八時から始まる保育園に事情を説明し、七時から翼を預けている。ささやかな翼との通園時間。手をつなぎスキップしながら歌を歌う。
「いただきます」
 翼は甘くなり過ぎた炒り卵から食べ始めた。牛乳とシリアルと、炒り卵だけのシンプルなものではあるが、美味しそうに食べている。孝幸は、インスタントで淹れたコーヒーを飲みながら翼を見ていた。
 二人だけの朝食。翼は元気よく今日一日の予定と希望を話しはするが、きっと淋しい思いをしているに違いない。
 仕事柄、夜は遅くまで作業する。以前は帰りが深夜になることも珍しいことではなかったが、亜沙子と離婚して以来、事務所での仕事は午後四時に切り上げ、翼を保育園に迎えに行くようになった。小さな会社であるうえ仕事上の信頼もある孝幸に対して、社員達は快く時間的な協力をしてくれた。
 翼が就寝するとダイニングテーブルの上に設計資料を広げ、残作業をノートタイプのパーソナルコンピューターで行う。それは、連日深夜にまで及んだ。
「まだ ねむいの?」
 コーヒーカップを右手に持ったまま左手で目頭を押さえていた孝幸には、牛乳の入ったコップを持つ翼がぼやけて見えた。
「うん、眠いよ、まだ」
「そうかあ、ダメだよ、はやく ねなくちゃ。ぼくは ぜんぜん ねむくないよ。はやく ねたから」
「そうだね。じゃあ今日からパパも早く寝るようにするよ」
 亜沙子と離婚して一年になる。
 離婚したばかりの頃、翼は何度も何度もママはどうしたのか、と孝幸に訊いてきた。その都度適当な嘘をつき話をごまかした。何故そんなに亜沙子のことが気になるのだろう。あんな仕打ちを受けてきたのに。
そう考えながら話す孝幸の声は、自然と強く発せられていた。同じ質問を繰り返す翼に対して苛立っていた。そんな表情を子供なりに察したのか、いつ頃からか翼は亜沙子について何も訊かなくなり、自然とその話題は二人の間から姿を消した。
 孝幸は、それまでの亜沙子の行動を悪い方向ばかりに想像し、自分を正当化するのに必死だった。亜沙子に対する愛情は既になかった。とにかく早く、この家から、自分の前から、翼の前から消えてくれ、そう思っていた。離婚さえすれば、それで全て解決すると思っていた。
「どうしたの?」
「ん?ああ、なんでもない」
 翼の表情を見ていると、それだけで幸せになれる。笑った顔、怒った顔、泣いた顔、困った顔。どの表情も全て翼であり、孝幸の一部だった。
 しかし、そのことに気付いたのは、亜沙子と離婚してからだった。家に居ても仕事の事を考える時間が多く、正面から翼と向き合うことがなかった。そして、それは亜沙子に対しても同じだった。翼が生まれ、亜沙子に掛かる負担が大きくなることはわかっていながら、仕事を最優先にしてしまった。むしろ、積極的に余計な業務を増やし、必然性を自分に言い聞かせ、忙しい環境を作り出してしまった。
 他に女がいた訳ではない。面倒だったのだ。亜沙子の愚痴を聞くこと。翼の世話をすること。いや、亜沙子と一緒に生活することが。亜沙子の苛立ちは日々増していき、それは孝幸にも伝わり、さらに帰宅時間は遅くなった。二人は向き合って会話することがなくなっていた。
 それなのに、どんなに遅くなっても先には寝ずに待っていた。出勤する時は必ず玄関まで見送りに来た。いってらっしゃい、という言葉に反応しなくなったのは、いつ頃からだろう。大切なその一言に、いつ頃から慣れてしまったのだろう。亜沙子の紡ぎ出すひとつひとつの細やかな行動に、感謝もしていなかった。むしろ重荷を感じていた。
「ねえ、パパ」
 飲み終えたコップを持ったまま翼が言った。
「ぼく、きのう おもしろいこと みつけたんだよ」
「面白いこと?」
「うん。これ」
 翼は、テーブルの隅に置いてあった小さな円状の歯車を二枚手に取った。なにかのオモチャの部品らしい。
「ねえ、みてて。おもしろいから」
 翼は目の前に二枚の歯車を噛み合わせて置くと、左側の歯車は中心を軽く押さえ、右側の歯車をゆっくりと右方向に廻し始めた。
「ね、このネジ、おもしろいでしょ?」
「ネジじゃないよ。歯車って言うんだよ」
「よくみて。こっちのネジを こっちに まわすとさ、こっちのネジは こっちに まわるんだよ」
 双方の歯車は逆に廻っていた。考えればすぐにわかるのだが、こうして見てみると不思議な気がした。
「すごいでしょ? おんなじ むきに まわそうとしても、ほら、ほら、ほら。うごかないんだよ」
 翼は椅子から飛び降りた。窓から吹き抜ける一瞬の風がコルクボードのパンフレットをはためかせた。風は暖かく、しかし身体には涼しかった。
「ごちそうさまでした」
 双方の歯車を少しでも離したら、片方は止まってしまう。同じ方向に廻そうとしたら、両方止まってしまう。それを無理矢理廻そうとすれば、いずれ歯は砕けるだろう。
「あのね、きのう ななしのごんべ に おてがみ もらったんだ。いいでしょ」
「ななしのごんべ?」
「うん。でも パパには ないしょねって かいて あったから なにも おしえないよ。ねえ、もう いっていい?」
 翼の自信に満ちた表情が、新品のように輝く歯車に思えた。
「風とか雲とか空とか・・・。そういうことだけを考えることにした。だってあなたは私を殺したんだもん。他には何も考えられないの」
 そう言って亜沙子は出て行った。
 砕いてしまった。自分が壊してしまった。それはわかっていた。しかし、離婚は亜沙子の一方的な責任によるものだと自分自身に言い聞かせ、心をかばい続けていた。自分の落度を認める勇気が孝幸にはなかった。
 二人でサイクリングに出掛けた時、大雨に降られてずぶ濡れになっても、嬉しそうに走り続けた亜沙子の横顔。翼が生まれた時、病室で静かに握手をした事。ふとした瞬間に見せるふとした仕草。静かに滑るように、しかし凛とした歩き方。
 生き返らせなければならない。
 もう一度歯車を廻そう。いくつ砕けたか解らない歯を、ひとつひとつ探し出してみよう。それこそ自分がしなければならないことなのだ。そして全てを見つけ出せたら、それを翼に渡そう。そうすれば、きっと彼がその小さな指で揃った歯車を廻してくれる。
「ほら、お弁当忘れてるよ」
「あっ、ほんとだ! どうも カバンが かるいと おもったんだよな」
 そう言う翼を見て孝幸は笑った。翼も笑った。窓から太陽の光が差し込み始めた。庭に咲いたすみれは、その光を受けて鮮やかに輝き、風に小さく揺らめいていた。

SEP.20.2008

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