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2008年6月18日 (水)

あかいほたる

乾いた風がゆるやかに流れる午前一時。

ガラスの上に落ちた一滴の水のように、丸く透き通った空には無数の星達が佇んでいる。池のまわりに立っている桜の木、砂利道のこちら側に立っているクヌギの木、樫の木。いろいろな草や木がパラパラと目を覚まし始める、都心の貴重な緑多き公園。
 昼間はこの近くで勤務するサラリーマンの食堂になり、犬を散歩させる人間がゆっくりと通り過ぎる。夕方にはジョギングする人間や、まだ言葉のわからない赤ん坊に話しかけながらベビーカーを押す人間も増えてくる。夜には手をつないでゆっくり歩く人間やベンチに座ってキスする人間達。茂みのなかでセックスする奴もいる。
 トランペットの練習をする青年、なにやらスケッチしている女、女にしか声を掛けない大したことなさそうなカメラマン。向こうの芝生の上で寝る人間、フリスビーを遠くへ投げては犬にキャッチさせている人間。空き缶を蹴りながら歩くランドセルがやけに大きく見える小学生。空き缶を池に投げ込む奴、吸っていたタバコを足で踏み消す女子高生。俺が聞いているのは世界で一番クールなヒップホップなんだぜとでも言いたげに、体全体でリズムを表現しながら歩くヘッドフォンをつけた若い男。飲み過ぎて、恥じらいもかなぐりすてて、ひざまずき吐いている若い女。
 公園の一日は、こんな感じで過ぎていく。代わり映えのしない日々。ある人々はこれを平和と呼び、ある人々はこれを退屈と呼ぶ。
 僕はこの公園を東西に横切る遊歩道の真ん中あたりに立って、そんな様子をずっと眺めている。今日で314日目。あれから毎日数えているから間違いはない。
 僕には人々の声が聞こえない。誰かが僕に触れても、温もりさえ感じない。ただ元々聞こえなかった訳じゃないし、感じなかった訳でもない。
「やあ、こんばんは。どうだい調子は。今日もいい光、出してるねえ」
 空の上から、月が涼しげに声を響かせる。
「こんばんは。毎日変わらないですよ、調子なんて」

ある日突然こうなった。起きたら、ここに立っていた。
 視界が異様に開けていた。強風荒波にびくともしない灯台のように、どんなに努力しても僕の体は動かなかった。顔も全く動かないから、見ることが出来るのは眼球の動きだけで捉えられる範囲に限られていた。そして、何も聞こえなかった。遠くから漂うように押し寄せてくる行き場をなくした不安感が、心臓を突き破って体を包み込むように広がった。子供の頃に感じた孤独感によく似ていた。
 何度も助けを呼ぼうと試みたが無駄だった。手足を縛られ口にガムテープを貼られたような感覚のなか叫んでも、声帯は動かず息は空気を震わせることはなく、静かに溶け込むように消えた。
 心の中に響き渡る行き場を失ったひとりごとを、虚しく受け止めるほかに術はなかった。
「あら、新入り?」
 耳ではなく、胸の辺りで響くように聞こえてきたその声は高すぎず低すぎず、明瞭でかすれはない。少し鼻にかかってはいるがくぐもった印象のない歯切れの良さは、実直で芯の強さを持つ女の声だった。
 どの方向から聞こえてくるのかわからないが、僕に向かって話しているに違いないと思った。
「いいんだよ。あたしだってはじめはそうだったんだ、話すことができないんだろ?無理しないでさ、まあゆっくりあたしの言うことを聞きなよ」
 もがいている僕をあざ笑うかのような軽やかさで女はそう言った。
「なにも怖がることないんだよ新入り。この公園にいる奴らはだいたいあたし達の仲間なんだ。もちろんそうじゃない奴らもいるけれどね。ああ、例えばほら、池の向こう側にいる、ほら、あの桜の木。あいつはまだ普通の桜の木だし、あのゴミ箱もまだ普通のゴミ箱なんだよ。それとあっちの芝生のところにいるでかいテーブル。あいつもまだ普通のテーブル。だからまだあたし達の仲間じゃないんだよ。まあ、そのうちなるとは思うけどさ。もちろんあんたは今日からあたし達の仲間だ」
 仲間?
「そう、仲間だよ。久しぶりなんだ新入りは。だからすごく嬉しいんだ」
 女は、僕が思ったことに対して返事をしているようだった。辺りの音はなにひとつ聞こえないのに、どこから話しているのかわからない明晰に聞こえる声。驚きとその声は、心臓をクサビのように貫き、あらゆるもがきと抵抗を無駄だと思わせるには充分すぎる力を持っていた。
「ここだよ、あんたの隣に立ってるんだよ。まあ、今のあんたじゃ見られないだろうけど。見ようにも体が動かないだろ?はじめはみんなそうなんだ。そんなに驚かないでよ」
 その話のなかで、僕は公園に連立する外灯のうちの一本になっていることを知った。

 それ以来、僕は遊歩道を照らし続けている。夕方、辺りが暗くなってくると僕は目覚め光を放ち始める。明け方迄続く光を放つという仕事を、公園の様子を観察しながら静かにこなす。そして、朝がくると消灯し、眠る。それを毎日延々と繰り返して生活している。
 腹は減らない。小便や大便もしない。性欲もない。人に見られて恥ずかしい生態の全てが奪われて、代わりに与えられたのは、夜の間光を絶やしてはならないという義務感だった。
 人間に戻りたい、普通の暮らしに戻りたい。そんな元に戻りたい欲求が湧き出るときもあるが、たいていはすぐに消えた。
 面倒くさい仕事も煩わしい人間関係もここにはない。こうして立っているだけで、世界は廻り時間は確実に動いている。あらゆる生物は生産し消費し、繁殖行為を繰り返しながら生きている。そう、僕がいなくても、なにも変わることはない。会社は倒産することなく、僕のやるべき仕事は全て隣の席の有能な若者が手早くかたづけてくれているはずだ。そのスピードは僕の能力をはるかに超えるものであることは間違いなく、それと同じスピードで僕の必要価値も衰退している。
 音を奪われ動くことを奪われ感覚を奪われた。それと同時に焦りという感情も失っている。認識する存在という意識の中で確かに僕は僕であり、けれども決定的に僕は僕でなくなっていた。

「いやいや、いい光だよ。今日は特にいい。わたしの光が負けそうさ」
 かるく目を閉じて心にもないことを言う月を、僕は無視して池を見た。
 池を囲むように並ぶ外灯の光が、淀んだ水に大小の円を描いている。それは、さながらてんとう虫の羽のようだ。
 少し視線を上げれば、ショーケースのようなオフィスビルが連なる。窓から漏れる明かりは、それに収められた宝石のように輝いて見える。その存在をささやかにサポートしつつも、所々誇らしげに点滅する赤い航空障害灯。東京を彩る蛍達。
 無数の光のなかで点滅を繰り返す赤い蛍は、僕に哀しいほどの自由を与え続ける。
 そして僕はここに立ち、遊歩道を照らし続ける。夜の帳のなか、誰も必要としない光を。

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